堀之内貝塚は、縄文時代後期から晩期(約4000~2500年前)の集落跡です。貝塚は、標高約22~23mの台地の縁辺にアルファベットの「U」の字形に分布し、その大きさは外径で東西約225m、南北約120mにも及んでいます。貝塚の内側には、東西に細長く平らな広場があり、標高が最も高くなっています。
1904(明治37)年10月16日、東京人類学会が本貝塚の発掘をおこない、発掘の様子や出土品が雑誌に紹介されたことから、本貝塚が全国的に知られるようになりました。この発掘の翌日、日本で初めて全身骨格が揃った埋葬人骨が発見されたことも注目されます。1954(昭和29)年には、日本人類学会創立70周年記念事業の一環として、早稲田大学・慶応大学・明治大学による発掘がおこなわれ、現在使われている貝塚の測量図が作成されました。これまでの発掘で竪穴建物跡(住居跡)6軒、人骨13体が発見されていますが、竪穴建物跡は極端に数が少なく、貝層下の発掘が不十分と考えられます。
本貝塚は、縄文時代後期に属する堀之内式土器の基準になった遺跡でもあります。堀之内式土器は、関東地方を中心に隣接地域にも広く分布しており、縄文を施した上に太い線で文様を描いた堀之内1式と細い線の間に縄文を施して文様を描いた堀之内2式に区分されています。
貝塚を構成する貝類は、後期前半はハマグリとイボキサゴが主体を占めていますが、晩期になるとハマグリとオキシジミが主体を占めるようになり、海退による環境の変化を物語っています。注目されるのは、コウイカというイカの仲間が数多く出土していることで、春から初夏にかけて、産卵のために浅瀬の藻場に近寄ってくる時に捕獲していました。
本貝塚の東方約400mには、縄文時代中期末から後期前葉(約4000~3700年前)の権現原貝塚の集落跡がありますが、両貝塚は極めて近接していることから、血縁関係にある集落と考えられます。近年、本貝塚の南側にある道免き谷津遺跡が発掘され、台地直下の低地から木組遺構と大量のトチの実が発見されました。この木組遺構は、堀之内貝塚の縄文人たちがトチの実のアク抜きや加工をするための施設と考えられています。
本貝塚は、1964(昭和39)年に国指定史跡に指定され、1967(昭和42)年と1972(昭和47)年に追加指定を受け、公有地化されました。隣接地には、1972(昭和47)年に開館した市立市川考古博物館があり、出土した考古資料、本貝塚の地理模型、縄文人の生活の様子を復元したジオラマなどが展示されています。
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